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伊藤博文

初代総理大臣として知る人も多い伊藤博文は、留学経験があり英語も堪能、西欧諸国の事情にも詳しい勉学に長けた人物というイメージが強い。そんな伊藤の出自は作男の子、後に足軽の養子となり、藩の人材登用で士分に。そして1885年に44歳で日本の初代総理大臣になり臣下として最高の地位につくという、貧農から総理大臣、公爵まで出世した希有な出世街道を突き進んだ人物でもあります。若年から松下村塾で熱心に学び、学問で身を立てる決意をした伊藤は井上聞多らと共に長州五傑の一人としてイギリスに留学。見聞を広めているうちにイギリスと日本との圧倒的な国力の差を目の当たりにして攘夷論を捨てました。開国し新政府ができると貴重な留学経験者として重く用いられ、英語だけでなく内政や政策面にも秀でていたため政府内でも一目置かれる存在に。総理大臣も4回経験し、明治政府の重鎮として大きな発言力をもつようにもなりました。韓国統監府初代統監に就任した直後の1909年、大韓帝国の民族運動家・安重根に狙撃され死亡。日韓併合に否定的な考えを持っていた伊藤が暗殺されたことにより、朝鮮半島の植民地化は避けられないことに…なんとも皮肉な暗殺テロでした。

意外にハト派

『戦争が国家の利益になることはない』伊藤はこの政治上のポリシーを主張していました。ロシアとの戦争にも陸奥宗光・井上馨らとともに日露協商論・満韓交換論を唱え、不戦を主張しましたがロシア側からの拒否もあり叶わず。また日露戦争後に、山縣有朋ら陸軍軍閥が唱える韓国の直轄植民地化などの意見とも対立。大日本帝国憲法の起草・制定に尽力した革命の闘士でありながら、本質は戦いを好まない考えを持っていた人物でした。

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