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久坂玄瑞

吉田松陰に「彼こそ長州第一の俊才」と褒め称えられ、高杉晋作、吉田稔麿とともに松陰門下の三秀とされたほどの才能の持ち主がこの久坂玄瑞。机上の学問だけでなく行動にも積極的で、江戸のイギリス公使館焼き討ちや下関における列強4カ国連合艦隊との戦いにも先頭に立ち激しく戦っていました。1863年の公武合体派のクーデター「八月十八日の政変」に、多くの同志を失った新撰組による池田屋襲撃などで尊皇攘夷運動が風前の灯火となった頃も、彼は尊皇攘夷派のリーダーとして行動に出ました。藩をあげて京都へ出兵し、政治の主導権を長州陣営へ奪還しようと戦い始めました。この、京都に侵攻し御所へ迫る長州軍と、それを阻止する幕府や会津藩、薩摩藩などの諸藩との戦いが後に「禁門の変」と呼ばれるものです。この戦いで長州藩は敗れ、久坂は鷹司邸で自刃。25年の短い人生の中、純粋に尊皇攘夷の思想を貫き通した姿に魅力を感じる人も少なくないです。

「もし久坂玄瑞が維新まで生きていれば…」

西郷隆盛や大久保利通、桂小五郎など維新に大きく貢献した英傑たちが最も死を惜しんだ人材が久坂玄瑞とも言われています。生涯揺るぎなく尊皇攘夷派を貫き通し、壮絶な最期を遂げた彼の生きざまは後に続く倒幕の英傑たちに大きな影響を与えていました。久坂は維新の先駆けとして多くの人物に「自分は何をすべきか」ということを、その命をもって教えてくれた功労者です。

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