HOME長州の風雲児たち > 吉田松陰

戊辰戦争

後の明治維新のために種をまいた人物とも言えるのが吉田松陰。彼は生来好奇心と探求心にあふれた性格を持ち、代々山鹿流軍学の師範をつとめていた吉田家の養子になったこと、別の叔父・玉木文之進が松下村塾を開いた教育家であったこともあり、幼少時から学問に明るく11歳のときに藩主の前で『武教全書』の講義を行い、19歳のときには家学師範、兵学家として自立するまでになった知識人です。ただし松陰の好奇心はただの軍学者では収まりきれず、ついには脱藩してまで遊学し、更に浦賀に来航した黒船に密航しようとするまでに至りました。こうして彼は危険人物とみなされ入牢し、5年間幽閉の身分に処されることになりました。その間に家の敷地内に松下村塾を開き、下級武士の子弟を中心に教えを施していました。しかし安政の大獄が始まり「危険人物」であった松陰は江戸に送致され取り調べられる中、訊かれてもいない“老中・間部詮勝の暗殺計画”まで喋ってしまい、反抗分子として斬首刑に処されてしまいました。30年足らずの人生でしたが、教え子たちが後に維新で活躍したことを思うと日本に大きな影響を与えた人物の一人として挙げられます。

命がけでの革新

幽閉時代に開いていた松下村塾では高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、品川弥二郎、山縣有朋などといった優秀な人材を輩出していました。存続していたのはわずかな期間でしたが、これらの尊王攘夷を掲げて京都で活躍していた人物や、明治維新で新政府に関わる人物に教えを説いていた吉田松陰の影響力の強さは計り知れません。当時の考えでは「危険人物」だった彼も、新しい世を作るにあたっては「斬新なアイデアマン」だったのではないでしょうか。

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