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山縣有朋

幕末維新で一気に名を揚げ、日本のトップに立った人物が山縣有朋です。足軽より更に身分が低い最下級卒族の出身ながら、ここから這い上がって日本陸軍の長となり、長州藩閥の総帥として君臨するというサクセス・ストーリーの代表格に挙げられるのが彼の歩んだ道です。成功への道の第一歩は奇兵隊に仕官したこと。槍術を必死で稽古していた彼は実力主義の奇兵隊の中で活躍し、スポットをあびるようになりました。そして奇兵隊総督だった高杉晋作が隊士の不始末でその任を解かれると、山縣は軍監となり隊の全権を掌握することに。その後戊辰戦争では北陸道鎮撫総督や会津征討総督の参謀となるなど、戦術レベルでの戦闘で才能を発揮していました。更に大村益次郎の暗殺後は彼の遺志を継ぎ、ついには新政府陸軍を主導するまでに出世しました。明治維新から日清戦争に至る短い期間の内に参謀本部の設置や軍人勅諭の制定など、近代的軍隊のための制度やシステムを整えたのも彼の功績。内務卿や2度の総理大臣を経験している間にも選挙制度や官僚制度の制定に努め、「近代日本」の礎を築いた人物としても欠かせないのが山縣有朋という人です。

人望に恵まれなかった偉人

権力者として君臨し、輝かしい人生だったかと言うとそうでもなかったと考えられます。少年時代は早くに母を亡くし、父も山縣が23歳のときに、性格が荒い継母から守ってくれていた祖母も奇兵隊軍監の身分の頃に亡くなっています。そして国のトップとなってからも明治天皇に好まれず、大正天皇に至っては明らかに嫌っていていたそうです。また山縣を藩閥政治の権化として嫌うものも少なくないなど、人に愛されなかった偉人であったと伝えられています。

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