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勝海舟

幕末の幕臣には珍しく、素早く目がきいてアグレッシブな性質をもった人物。それこそが勝海舟という人です。近代海軍の創設に尽力し、終末期の幕府では全権を担って江戸城を無血開城、150万の江戸の民を戦火から救うなど、この時代最も活躍した幕臣です。若い頃に剣術と蘭学を学び、ペリーが来航した際には幕臣に求められる「蘭学の素養」や「西洋事情に詳しい者」という条件を満たし、黒船騒ぎで世間が騒然となっている中で彼は海防に関する意見書を上申して幕府に登用されるという、この頃から先見の明を発揮していました。長崎の海軍伝習所に生徒兼運営スタッフとして派遣された勝はやがて軍艦操練所教授方取締に就任し、そして軍艦奉行となり神戸に海軍操練所を設立。この操練所の生徒には幕臣だけでなく他藩の藩士も多く採用していたのですが、諸藩の力を削ぐことばかりに熱心な幕府の保守派はこれに反対し、彼らにより勝は軍艦奉行を罷免されてしまいます。しかし幕府は第二次長州征伐に失敗したことから勝が必要なことに気づき再び軍艦奉行に復帰。その後鳥羽・伏見の戦いに幕府が敗れ、官軍の江戸侵攻が間近に迫ると勝は幕府の全軍を統括する軍事奉行に抜擢。勝と官軍総司令官の西郷隆盛は早期停戦と無血開城を交渉。共に日本全体を思っていたため成立した内容です。維新後も広い視野をもって物事を見つめ参議兼海軍卿などを歴任しました。幕末最高の人傑、それが勝海舟という人です。

雄弁は黄金

幕末の有名人・坂本龍馬も勝の操練所で学んでいたのですが、坂本が勝に近づいた理由は彼を斬殺するためでした。当時尊皇攘夷運動に荷担していた坂本にとって勝は都合の悪い人物だったのです。しかし勝は海軍の重要性を説き、その話を聞いているうちにすっかり魅せられた坂本は以降弟子として勝を支えることとなりました。その雄弁さは後の江戸城無血開城にも役立つ、勝の最大の武器でした。敵でも話を聞いているうちに彼に従いたくなる、不思議な力が彼の言葉にはあったのでしょう。

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