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岩倉具視

公家には珍しい強面で行動派だったのが岩倉具視。ペリーが来航する直前の1853年1月に岩倉は鷹司政通の歌の門人となり、彼の信任を得て朝廷における発言の場を手に入れました。そして老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために上洛した際には、保守的志向の公家たちと共に猛反対して抗議行動の先頭に立ちました。この一件で岩倉は下級公家ながら一目置かれる存在となることに。以後彼は王政復古、華族支配体制という究極の政治目的のために活動し、薩摩藩と接近して発言力を増すようになり、薩長同盟が成立して世が倒幕に向かって動き出すと、朝廷側の代表者として岩倉の動きは活発になりました。そして1867年、王政復古のクーデターが成功し岩倉は新政府の参議として中心メンバーに加えられました。その後は外務卿として不平等条約の改正に尽力し、政府主要メンバーによる海外視察団では特命大使としてリーダーを務めるなど、政治オンチで世間にも疎い公家のイメージを払拭する活躍を見せました。

屋敷を賭場としていたのは…

堀河康親の次男に生まれた岩倉具視は、正三位帷左近中将・岩倉具慶の養子となって岩倉家を継いだのですが、岩倉家は公家としては家柄も低く所領も150石と貧乏の部類に入る家で、屋敷を賭場としてその寺銭で食いつないでいたともいいます。しかしこれは倒幕運動に加担する志士たちとの親交をカムフラージュするためだったという説も。公家の屋敷には幕府の役人も手を出せないので、もしこの説が本当だったら絶好の会談場として屋敷を使っていたことでしょう。岩倉が公家にしては政治に詳しいのもそのおかげ…?

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