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徳川慶喜

徳川幕府最後の将軍として有名なのが徳川慶喜。彼の父は賢才で評判の高い水戸藩第9代藩主・徳川斉昭で、「水戸学」と呼ばれる尊皇攘夷思想のルーツともなる思想を強く持っていました。熱しやすく極端な性格だった彼は強烈な尊皇攘夷論者になっていたため、息子の慶喜もまた強い尊皇攘夷の志をもっているだろう、と尊皇攘夷派から期待されていました。しかし世間の人気とは裏腹に大老の井伊直弼をはじめ、幕政の中枢にある人々にとって慶喜は学識のある利口で小賢しいイメージが強く、自分が取り仕切る政治にも干渉してくるのでは、と警戒していました。そして安政の大獄の大粛清で開国政策の妨げになりそうな人物を除外、慶喜も謹慎処分として自宅に軟禁されました。井伊直弼の死後、再び政治の表舞台に立った慶喜は幕政改革を行なったのですが、その内容は開国政策に公武合体の推進と、尊皇攘夷派の思惑とは全く逆でした。以降も大政奉還、江戸城明け渡しと期待を裏切るかのような行動をとった慶喜を良く思わない人も少なくありませんでした。彼からしてみれば、尊皇の心はあるので朝敵にはなりたくない、と思っていたのでしょうが…戊辰戦争が早期解決したのはその考えのおかげなのですが、あまり良いイメージをもたれない悲劇の将軍でもあります。

敵前逃亡にも理由が

慶喜のイメージを下げた汚点の一つとして鳥羽・伏見の戦での敵前逃亡があります。これは敵である薩長側が朝廷から与えられた「錦の御旗」を掲げていたからです。これに逆らうと朝廷に牙をむいた賊軍となってしまうため、尊皇の心があった慶喜は手を出せなかったからだと言われています。それでも「敵前逃亡」は事実なのでそれが評価を落とした一因でもあります。そもそも勝手に期待して、それが理想と違うからと落胆するのもどうなのでしょう。損な役が回って来た慶喜に同情したくもなります。

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