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有馬新七

自叙伝にみずからを「天性急烈」「暴悍」「長者の教えに従わず」と描いたほど激烈な人生を歩んだのが有馬新七という男。学者の梅田雲浜と知り合い、尊皇攘夷思想を説かれたことで「これが自分の生きる道」と人生を一変するほどの衝撃を受け、持ち前の情熱で積極的に尊皇攘夷運動に荷担してしまいます。島津久光が上洛と聞き、これは倒幕の始まりだと誤解し全国各地から志士を召集。京都の寺田屋に集結し、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定、倒幕挙兵を決行しようと先走ったところで久光が鎮撫使として剣術に優れた藩士を派遣。藩邸に同行を求めた鎮撫使たちに対し、有馬はこれを拒否したため、粛清として“同士討ち”の激しい斬り合い「寺田屋騒動」が勃発してしまいました。奇襲のうえ多勢に無勢で有馬らは不利な状況に陥り、ついに有馬の刀が折れてしまう。彼は最後の抵抗と、刺客の道島五郎兵衛に素手で取っ組み合い「おいごと刺せ!」と叫び仲間に道島ごと串刺しにさせて、彼らしい壮絶な最期を遂げました。

実は努力家

過激で熱血漢な部分が有名な有馬ですが、実は崎門学派と直心影流の剣法を独学で学ぶという、文武両道の面をもっています。19歳のときには江戸へ遊学し更にその才を磨き、努力家の彼の姿勢に後輩や同輩で慕う者も多かったです。この頃からの人望が後の活動に有利に働いたのですが、ほぼ同時期の人脈で梅田とも知り合い、そして過激な行動で命を落とすことに…梅田と知り合っていなかったら有馬はどんな人生を歩んでいたかが気になるところです。

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