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小松帯刀

幕末期の薩摩藩において、志士達のよき理解者であった名家老として知られるのが小松帯刀です。西郷隆盛や大久保利通ら下級士族出身の志士たちが活躍できたのも彼の庇護があったからこそ、とも言われています。生まれも跡目養子先も良い家柄に加え、努力家で向学心あふれるタイプ、更に人柄も良い人材であったため留学先の長崎から帰るとすぐに家老職に就任。京で幕府や朝廷との連絡交渉役を務めました。また薩摩藩の人物でありながら当時対立していた長州藩にも同情的であり、薩長同盟の締結には積極的に取り組んでいました。長州側からも、「薩摩藩の中で唯一信用できる相手は小松」と信頼されていたそうです。大政奉還のときには薩摩藩代表として参上し、倒幕へと藩の方針が転換したときも薩摩藩を代表する立場に押し上げられるといった『薩摩藩の顔』として活躍していただけでなく、坂本龍馬が「船中八策」に記した新政府の人事構想でも筆頭に挙げられるなど『新政府の顔』としても期待されていました。それだけに新政府が成立して間もない1870年に36歳の若さでの病死が惜しまれます。

身分・才能ともパーフェクト

小松の父は喜入領主の肝付兼善。5500石の薩摩でも有数の名族で、その後肝付家に勝るとも劣らない名家・小松家の跡目養子となって家督を継いでいます。出自が良いだけでなく西洋の軍事技術にも精通していて、藩内でも西洋通と評判も高かったです。その知識を活かしイギリスと薩摩の有効にも尽力し、兵庫が開港されると会社を設立し貿易拡大にも努めました。政治や外交などマルチに才能を発揮していた彼がもっと長生きして入れば…と早世が悔やまれます。

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