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大久保利通

西郷隆盛と同様、下層の武士階級から国のトップクラスへと出世したのが大久保利通。下級藩士の家に生まれ、更に1850年のお由羅騒動で父・利世とともに謹慎処分を受けたため大久保家は極貧の生活を送っていました。しかしその後藩主になった島津斉彬に才能を見いだされ藩政の中枢で働き、斉彬の死後も島津久光に気に入られ小納戸役に抜擢され出世街道を進んでいました。兄のように慕っていた西郷とともに薩摩藩の藩政を切り盛りしていた大久保でしたが、新政府の参議に就任し廃藩置県や版籍奉還などの中央集権体制を推し進めていた頃から、西郷との間に思想的なズレが生じてきました。それが最も顕著に表れたのは、西郷を中心に朝鮮出兵を主張する征韓論が起こった時のこと。岩倉使節団の副使として外遊していた大久保は帰ってきて愕然とし、大陸進出は時期尚早として征韓論に大反対しました。この政争に敗れた西郷は下野して、その後に西南戦争が勃発。慕い尊敬していた西郷と戦い、自刃にまで追い込みました。どんなに慕う人物でも近代国家に害をなす者は排除する。大いなる目的を完成させるためには鬼にでもなれる現実主義を貫き通すのが大久保利通という人物です。

鉄の意思をもった政治のプロ

叛乱の盟主であった西郷を討ったことや、地元への利益誘導を一切行なわなかったことから、地元での大久保の評判はすこぶる悪かったです。しかしそれはあくまでも新国家のためを思った行動です。大局的な見地から新国家の成長だけを願い、それを妨げる者は排除と、明治になってからも志士の心を持ち続けた数少ない人物です。冷徹に思われることもありますが、西郷の死を知ったときは人目を憚らずに号泣し、1878年に暗殺されたときには馬車の中で西郷の手紙を読んでいたなど、友を思う強い気持ちもありました。「中央集権体制を確立させるためなら、冷徹に思われても構わない」そんな揺るがない意思をもっていました。

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