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島津久光

島津斉彬の異母弟にして、第12第薩摩藩主・島津忠義の父でありその後見となったのがこの島津久光です。斉彬の死後は彼が登用した大久保利通や小松帯刀、海江田信義などの中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを重く用いたのですが、その中心であった西郷隆盛とだけは終生反りが合わず無断で上坂した彼を遠島処分にするほど気に入らなかったそうです。久光は気に入らないと判断した相手にはかなり過激な行動に移す質があり、その代表格が「寺田屋騒動」です。1862年に藩兵千名を率いて上洛した久光に、尊皇攘夷派志士たちは倒幕を期待していたのですが、彼自身はその意思は無くあくまで公武合体を目的としていました。それに不満を持った薩摩藩の過激派・有馬新七らが関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を殺害しようと寺田屋に集う。この情報を知った久光は自藩から反乱者を出さないために有馬をはじめ中心人物8人を斬殺させるという行動に出ました。このように短気で過激なところもありますが、後に仇敵だった長州と倒幕の道を進んだり憎んでいた西郷を許したりとそれなりの度量も持っていました。

過激な幕末のトラブルメーカー

もう一つ代表的な過激行動に「生麦事件」があります。久光一行の行列の先を横切ったイギリス人を殺害した事件で、後に薩英戦争にまで発展してしまうものです。謝罪と賠償金を求めるイギリスに断固として応じない様は、この幕末期においては珍しく度胸のある殿様でした。この戦争でイギリス艦隊の強さを体感すると和解して西欧化路線を容認するところも柔軟な思考のなせる業。問題行動も多いですが、乱世には相応しい人物だったと言えます。

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