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岡田以蔵

土佐藩を代表する暗殺のプロといえばこの岡田以蔵。多数で一人をなぶり殺すのがほとんどであった幕末の京都において、1対1で戦って斬り殺していたのは岡田が唯一とも言われています。戦闘能力に関してはずば抜けた才能があり「人斬り以蔵」の名は敵だけでなく、味方すら恐れられていました。子供のころから腕力だけは強く粗暴な岡田でしたが、武市半平太が開いていた剣術道場で彼の大志に触れ勤王の志士となる。以降二人は最良の師弟関係を築いていました。しかしそれに陰りが出てきたのは土佐勤王党が本格的に活動を始めた頃。学の無い岡田は武市に命令されるまま佐幕派の人物を次々暗殺、時には指示が無くても自ら人を斬殺することも。武市ら土佐勤王党が土佐で投獄されてしばらくしてから、岡田も幕府に捕らえられ土佐に送致。思想の無い岡田は拷問に耐えきれず口を割るだろうと武市は読み、獄中で岡田の暗殺指令を出したのですが、この武市の裏切りを知って怒った岡田は全てを白状。武市のため暗殺に手を汚し続けていたのに裏切られ、打首のうえ晒首。あまりに悲しい最期でした。

利用されていただけの悲痛な人生

岡田は知友の坂本龍馬に頼まれ、開国派の幕臣・勝海舟のボディガードを引き受けたこともあります。その際に仲間であるはずの尊皇攘夷派の襲撃者ですら斬り捨てたといいます。仲間として自分に接してくれる人ならば尊皇攘夷も公武合体も関係なく、彼らの信頼に応えようというのが岡田のポリシー。純粋だが思想は無い。そんな彼であったから武市も岡田を暗殺の道具として使い、道具として切り捨てようとしたのかもしれません。愚直に生きるには辛すぎる時代に生まれてしまったのが岡田の悲劇でしょうか…

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