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板垣退助

板垣退助と言えば明治初期の自由民権運動の闘士としてのイメージを強く持つ人も多いでしょう。そんな彼ですが実は子供の頃からケンカが大好きな気性の荒い人物、戊辰戦争では三千の兵を率いる野戦司令官として大活躍し旧幕府軍を震えあがらせました。しかしただの喧嘩っ早い男に収まりません。吉田東洋もその才能を見込んでいたからこそ藩の要職に抜擢したのでしょう。以降板垣は勇猛果敢な性格を活かしながら働き、藩主・山内容堂にも気に入られてどんどん出世街道を進んで行きました。そんな中で吉田が暗殺されると、板垣と同じく東洋門下であり佐幕派の幼友達・後藤象二郎は復讐に猛り狂うのに対し、板垣はドライに状況を分析して「公武合体は無理なので倒幕しかない」という割り切った考えも持っていて、中岡慎太郎や西郷隆盛とも密かに会合し、武力倒幕の計画にも荷担していました。倒幕後の新政府では参議になりますが、激情の面が出てしまい政府を去ることに。その後は自由民権運動の代表者として民主主義の発展に大きな功績を残しました。

有名逸話の裏側

自由民権運動を推進した板垣は国会開設の詔が出されたのを機に自由党を結成して党首となり、全国を遊説してまわり党勢拡大に努めていました。しかし1882年に岐阜で遊説中に暴漢に刺されてしまいます。ここで「板垣死すとも、自由は死せず」と言ったという有名なエピソードがありますが、実際はこの言葉で板垣本人が言ったわけではないそうです。また、ケンカ強い板垣は、刺した者に流血しながらも反撃を喰らわせたとも伝えられています。政治家というよりケンカ屋として力があったとも言われています。

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