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武市半平太

幕末維新で亡くなった志士たちの中で最もその死が惜しまれる人物と言えば、長州藩の久坂玄瑞とこの武市半平太の二人が挙げられます。そして久坂が生前に崇拝していたのもまた武市だったといいます。武市は若くして小野派一刀流の免許皆伝を得て道場を開き、中岡慎太郎や岡田以蔵など後に土佐勤王党の重要メンバーとなる者たちを弟子としていました。その後江戸に留学した武市は「江戸三大道場」のひとつ桃井道場で剣の腕を磨くと同時に桂小五郎や久坂らと交流し、尊皇攘夷派の論客としても知られた存在となります。そして土佐に帰って土佐勤王党を結成、佐幕・公武合体を目指す吉田東洋による現政権と対立しました。参政権の無い郷士の集まりにしか過ぎない勤王党がとった手は吉田の暗殺。改革に不満をもつ藩政の守旧派と結託して藩政の実権を握り、岡田らを使い佐幕派の要人を次々に暗殺、京都政界を牛耳りました。しかしこの黄金期は長くなく、八月十八日の政変で京では勤王攘夷派の勢力が急速に衰退。吉田を腹心としていた山内容堂はこの隙に復讐として武市や勤王党の面々を捕縛し、投獄して吉田暗殺などの嫌疑を厳しく追及しました。そして1865年、後に捕縛された岡田の自白により吉田暗殺首謀者としての罪状が確定し切腹。暗殺を繰り返していた黒いカリスマとイメージされることも多いですが、その高潔な人柄ゆえ多くの志士に愛され、尊敬されていました。

義理、胆力、忍耐力…全て揃ったカリスマ

武市は上士に準ずる身分「白札郷士」であったため、投獄後に肉体的な拷問は加えられなかったものの、1年半に及ぶ獄中での追及による精神的苦痛は計り知れません。久坂玄瑞は投獄を危ぶんで長州へ亡命することを武市に勧めていたのですが、君臣への義理を理由にこれを断ったそうです。そして生前牢番に語った通り「切腹と決まれば腹を三文字に切る」を実現。腹を3回も切り裂く苦しみはよほどの胆力と忍耐力がなければ実行できるものではないのですが、それを見事に果たした武市は最期まで志士達の鑑となっていました。

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