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山内容堂

島津斉彬、松平春嶽、伊達宗城と並んで幕末四賢侯のひとりに挙げられるのが山内容堂。土佐藩第15代藩主となった彼はこれまでの門閥や譜代の旧臣らによる藩政を改め、革新派の吉田東洋を起用して藩政改革を断行し、後藤象二郎や福岡孝悌などの若い才能もとりたて藩内を活性化させました。この勇気ある藩政改革が認められ、幕府からも一目置かれる存在となった山内は、幕閣に助言を与えることも増え論客の殿様として存在感を誇示するようになりました。しかし将軍後継問題で一橋慶喜を推したのが仇となり、大老の井伊直弼に睨まれ、そして安政の大獄により半強制的に隠居させられることに。佐幕と勤王の間に揺れ、腹心の吉田を勤王党に殺されるなど精神的に追い詰められることも多かったです。しかしいざとなれば持ち前の強さを発揮し、土佐勤王党を粛清、倒幕の動きは止められないとみると倒幕路線を容認するなど正しい判断を下していました。徳川慶喜を動かし大政奉還を仕掛けたのも彼の功績。土佐藩と山内の動きで倒幕革命は無血で成功するかと思われたのですが、王政復古のクーデターから戊辰戦争へ。心を痛めた山内は酒量が増え、それが原因の脳卒中で亡くなりました。

英雄の風格を備えた「鯨海酔侯」

幕末四賢侯の4人の中で最も個性派な彼は、勝海舟が坂本龍馬の土佐脱藩の赦免を願ったところ、承諾のサインとしてひょうたんの絵を描き「歳酔三百六十回、鯨海酔侯」と書きました。これは「鯨海(土佐湾)の酔っ払い」を意味していて大酒家であった山内を顕著に、そしてユーモラスに表現していました。そんな山内を勝は「天資豪宕、襟懐洒落、真に英雄の資を備えていられた」と評価しました。動乱期にありながら世を達観して見ていた様は当時としては珍しい殿様と言えるでしょう。

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