HOME土佐の風雲児たち > 吉田東洋

山内容堂

吉田東洋は家禄200石の上士の家に生まれ、船奉行や郡奉行といった要職を歴任した後、藩主・山内容堂により大目付に抜擢、間もなく仕置家老に登用されました。山内の絶大な信頼のもと藩政改革を推し進めていたのですが、江戸に出張した際に酒宴における旗本殴打事件を引き起こし罷免。帰郷後は高知郊外に私塾を開き後藤象二郎や板垣退助、岩崎弥太郎などの若手藩士に教授しました。安政の大獄後、藩政に復帰した吉田は財政改革など再び藩政改革を行い、その中には身分制度にとらわれない人材登用制度の計画も含まれていました。身分制度が厳しく、下級武士や郷士では藩政の中枢で活躍することが難しかった土佐藩においては異例の制度でした。しかしこの頃、郷士の多くが武市半平太のもと尊皇攘夷思想を掲げて土佐勤王党を結成し、佐幕派である吉田は憎むべき敵となっていました。そしてついに勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助により暗殺、吉田は志半ばで倒れました。しかしその先進的発想は私塾で教えていた者たちに引き継がれ、明治初期の政財界を動かしました。多くの人材を育てた彼は、後の日本を間接的に支えていたということになるでしょう。

激情家、活かすも殺すも上司次第

良家の生まれである吉田ですが、意外にその気性はかなり激しく、若い頃に使用人と口論になり無礼討ちしたことがあるほど。しかしその闘争心旺盛な性格は勉強にも向けられ、人一倍熱心に学問や剣術にも打ち込んでいました。山内容堂が彼を重く用いたのもその気性と学識に目をつけたからだと言われています。安政の大獄で山内の危機を切り抜けたことから吉田の声望は一気に高まり、藩政改革を一任するなど二人の信頼関係はかなり深かったです。キレやすいものの、上手く登用すればこの上ない働きをするのが吉田東洋という人です。

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